ウガンダから帰国しました。

アフリカから帰国した家族のお話。

言語のエクスキューズ

母親って複雑な生き物だ。

 

 

今私たちが生きる世界は、当たり前のように他の国を行き来することが増えてきて

それはイコール自分の国以外の人とコミュニケーションを取らなければいけない世界に足を踏み入れること。

 

その中でまず最初にハードルになるのが、やっぱり言語だと思う(もっと大きな大事なハードルが後から後から出てくるのだけど)。

 

私の人生を振り返っても、32年間常に言語と戦っている気がしている。

 

ナイロビで生まれて、親と使う言語とシッターさんが使う言語の違うことから、幼稚園で使う言語が違うこと。

小学生で再びケニアに訪れてスワヒリ語という言語を新たに認識したこと。日本での生活ですっかり忘れた英語を、インターに通い始めてから必死に吸収しようとしたこと。そしてそのあとのたった一年間の日本帰国中、必死に習得した英語をスルスルと忘れていったこと。

 

そしてその後のタンザニアでの高校生活は、本当に必死に英語に食らいつく3年間強だったと思う。

(そんな中タンザニアでは現地の人と英語でコミュニケーションすることが難しかったから片言だけどスワヒリ語をキャッチしようと努力したり(なんてったってその時私の周りではスワヒリ語を英語に混ぜて話すのがクールだったんだもの))。

 

 

そんなこんなで私は言語に常に苦労していたけれど、それと同時に、その言語ハンディキャップに常に甘んじてきたようなところがあったと思う。

 

社会人になりたての頃私の日本語の文章を見た上司は何度もため息をついたし、とはいえ私の英語の能力が別段高かったわけではなく「なんなら喋れるの?」「何語ならできるの?」と言われたのは決して一度や二度ではない。

正しい日本語が喋れない帰国子女。

大した英語力もない日本人。

という二つの代名詞がずっと付いて回り、悔しい思いもすれば両方が中途半端な自分に心底悲しくなったりもした。

 

でも私はなんだかんだそれにいつも甘んじていて、しょうがないなと自分を許しているところがあったと思う。

常にハンディキャップを持った自分で、それによってみんなと同じフィールドに立たないオプションを、常に隠し持っていたし、自分に甘かった。かも。いや、とても甘かった。多分今も。ずるさだ。

 

最近ちびをみていて、

ちびがどんどん英語を吸収するすごさに感動しつつ、彼がそれをあっという間に失っていく様子を想像したり、

たまに思い出したようにひらがなの書き方を勉強したりする彼を見て応援しつつ、彼がこの今の1年間によって私と同じようなエクスキューズをどこかに隠し持ってしまうのではないかとヒヤリとしたり。

 

彼と私はもちろん全く別の人物なので(大事なポイント!)、彼はこの状況への向き合い方も違うし、言語の吸収能力も違う。けれど、彼の日々の葛藤や、これからまた彼が日本に帰った時の新たな日本語への向き合い方も、英語力の蒸発のスピードも手に取るようにわかり、目に見えるように想像できてしまうから、勝手に悩んでしまう。

悩むも何も、彼を連れてきたのは私なのだけど。

もちろんそんなのことを優に飛び越えられるくらい彼にとっても我々にとってもかけがえのない経験ができると信じているから連れてきたんだけど、(実際最高の毎日なんだけど)勝手に自分を重ね悩んでしまう。

 

 

 

ここからあと9ヶ月後、日本に帰国する時にちびの言語との付き合い方については、多分すごくすごく悩むと思う。悩んでも仕方ないよ、って思う自分がいつつも、多分きっと、ものすごく悩むと思う。今でさえ、毎日毎秒、「おちびに英語で話しかけようか、いや日本語?」と考えている私だから。笑

 

どうなってしまうのか。でもその時今よりもっときっとたくましくなっているだろうちびと、きちんと相談して、考えて話し合って決めて行こうと思います。

今すでに持っている、帰国後に関する母親的妄想については、まとまってなさすぎるのでまた後日、、で。

 

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私は勝手に考えていますが、今日もちびは元気にウガンダゴリラTシャツを身につけて飛んでます笑

 

あー母親って複雑すぎる生き物だ。

てか私が、かも。