ウガンダから帰国しました。

アフリカから帰国した家族のお話。

「ずれてる」を楽しめる?

ずれを楽しめる?

日々いろいろと書きたいことがあるのにうまく書き上げることができず。
どんどん下書きばかり溜まっていく。何十個もの仕掛品が棚にあるけどいつまでたっても出荷されず、、みたいな感じです。


だってあまりに話に落ちがないもんだから、、、といいつつ今日もまた落ちのない話を書く。

 

ずれ。

ずれを楽しめるか。
対人関係において「それ、私とずれてる」をいかに受け入れて楽しさに変えてしまえるか、
それは本当に課題だなぁと思っている。いつも、いつも。

私はずれをあまり受け入れられないタイプ、キャパが狭く、他人に厳しい。
だからこそ自分自身も窮屈だし相手を不快な思いにさせることも多いと思う。


人はだれしもたぶん、生まれ育った環境、家族、周りの人々によって
「自分」を作っていく。
生涯を通して完全に出来上がることはなくて、日々が作られる過程ではあるのだと思うのだけど
とはいえ20年、30年も生きてくれば、ある程度固まってきて人間としてのキャパができあがってくる。

「ここまでは常識」「ここまでは許せる、大丈夫」みたいな自分なりの範囲ができてきて、
「自分」ができてくる。

ただ、新しいコミュニティに足を踏み入れたり、新しい人々に会ったり
新しい人生のステージに入ると必ずのようにそれを覆すような経験をするわけで。

「ここまで」って引いていたきれいな太い線を平気でスキップで乗り越えられたりすることが
しばしば、起こるわけだ。

私の場合キャパも狭いので、乗り越えられる経験がその分多い。
この乗り越えられる経験が多い分、それによって感情を動かされたりするわけだけど。

動かされた感情がプラスに動くか、マイナスに動くか。
「ほほう。そういう考え方もあるのやな」と思えるか
「本当に常識ないなこの人。嫌だから付き合いやめよ」とShut outしてしまうのか。

私は断然後者の方が多いんですけど(恥)。本当にもったいないよね。
だってそれって自分が作ったキャパのせいで、乗り越えられる経験もあるわけで、、
(まぁもちろん本当にちょっとダメな場合もあるんですけど、、笑)

 

 

そんなこんなで、、
海外で生活すると、違う個体の人であることだけでなく、人種や信仰、育って来た環境、金銭感覚、ベースの部分でもかなり大きく違うから、本当にその「乗り越えられる」経験をすることが山のようにある。

今から思うと私それが耐えられなくて日本に帰ったようなところがあったのかもな、と今振り返り思ったりする。

高校卒業時日本にどうしても帰りたかった18歳の私は、海外の大学への進学なども一切振り切り、日本へ帰って来た。人一倍日本への憧れが強かったからなんだけど、私にとっては日本が心地良い場所だったからなんだよなぁ。きっと。

日本にいれば私のキャパは他の人と大きくずれすぎることがなく、安心安全だったから。

 

 

でも、結婚して子どもが生まれて、近しいところでかなり私の枠線(と呼ぶことにしよう)を乗り越えられることが多くなって。

最初はキーキー怒っていたけど(今もか)、少しずつ動じることが減って来た。

それは多分結婚して子どもが生まれるまでは、あまり他の人と踏み込んで付き合うことを遠慮してたのかな。というか踏み込む勇気がなかったのかな。

だから枠線を乗り越えられたとき、それより先に踏み込んで、乗り越えられた理由や背景を知ったり考えたりしなかったのかもしれないな。

 

ただ新しく家族が増えて、そんな経験がどんどん増えて、私の中で踏み込んで考えるしかなくなって来て、ようやく私も他の人には他の人の事情があるし、色々違うんだわ、と体感しとして本当に知った!!今更?!って笑うかな?でも恥ずかしながらそうなんです。

今までできなかったことがようやく少しずつできるようになって来た(でもまだまだだよ)。

 

そんな中ウガンダにやってきて、本当に家族が増えたことによって、海外生活の私のキャパシティが広がり、良かったなぁ幸せだなぁと思っています。

 

「ずれ」を感じる出来事は日常的に起こりはするけど、でもなんか、まぁいいかぁ、と思えることが多いのです。

文句は言ってみるけど、そんなもんか、と受け入れてみたりする。

 

だから、より、今回のウガンダでの日々は楽しいんだと思います。どんどん世界も広がって行く感じがします。短期間で。

それは紛れもなく家族のおかげなんだけど。

 

「ずれ」をたくさん感じていろんな人の考え方や生き方を経験しながらも、自分の大切なものや感覚はぶらさず、残りの期間も生活したいな、と思います。

 

面白い「ずれ」の話があればここでも書いていきたいなぁ。